「生命と平和」を切り絵に託して

 小堺百子は災害と戦争、復興と平和の変化の激しい時代を生き抜いてきた。生を受けたのは文京区小石川であるが、1才で関東大震災に遭い、9才で父を亡くし、弟の子守りをしながら小学校に通った。やがて満州事変から中国侵略へと戦争が拡大するとともに、4人の兄たちは召集・外地派遣となった。働き手を失う中、内閣印刷局で働いて一家を支えていたが、過労で肋膜炎を患い、療養のため山梨の親戚宅に疎開した。

 1945(昭和20)3月10日の東京大空襲で親友を失い、5月24日、疎開先から戻っていた小石川で山の手空襲で焼け出され、中野、板橋と親戚や知人を頼って転々とした。8月15日、ようやく敗戦を迎えたが、すぐ下の妹むめ子(当時20才)は中国東北部錦州で戦渦に巻き込まれ、生死不明となり遂に生きて戻らなかった。

 百子が繊細の美と連続の妙を持つ中国の剪紙(切り紙)と出合ったのは、1970年代の日中友好運動の中でことである。戦争の悲惨な体験が百子を日中友好運動への参加に導き、切り紙に出会わせたのであるから、百子の切り紙制作の根底に平和への思いが流れているのは必然とも言える。

1975年、百子は三鷹市下連雀に居を移し、同時に切り紙を始め、有志等と共に「切り紙青洞会」を結成した。生来、植物を慈しんできた百子は、井の頭公園や玉川上水の自然に触れることで、単なる中国切り紙の模倣ではない独自の点刻切り紙という世界を切り拓いた。この微細な技法によって井の頭はその姿のままに切り絵の世界に立ち現れ、百子は切り紙仲間から「樹の百子さん」と言われるようになったのである。(「青洞」創刊号をお読み下さい)

 百子は、愛するものを切り紙に刻みつけた。(確認できた作品だけでも252点、今回展示できたのは57点である。)井の頭の風景、そこに遊び、憩い、働く人々の姿、様々な群像等、それら百子の愛したものの中に自ずと百子の主張が表れる。遺作展を通じて、百子の愛したもの、人間や自然の中に息づく生命への思い、そして平和への思いを受け止めていただければと願っている。

20061027日 切り紙青洞会 小堺百子遺作展

小堺百子略歴
1922 大正11年 0才 文京区小石川、9人兄弟5人目、長女として誕生
1923  12年   1才  関東大震災
1928  3年    6才  文京区立金富小学校に入学
1931 昭和6年  9才  父、親蔵死去、満州事変勃発
1936  11年  14才 内閣印刷局工場勤務
1943  18年  21才 肋膜炎で療養、印刷局休職
1944  19年  22才 山梨県明野村に療養を兼ねて疎開
1945  20年  23才 文京区小石川に戻って5月24日山の手空襲に遭う、敗戦
1946  21年  24才 板橋に転居、ドレメ系YS洋裁専門学校で学ぶ
1947  22年  25才 洋裁の仕事をしながら陽光保育園の設立運動に関わる
1949  24年  27才 出版物取次店で働く
1950  25年  28才 小堺博と結婚、朝鮮戦争勃発、(その後、子ども二人出産、
          洋裁や文具店商いなどの仕事をする 
1959  34年  37才 日本子どもを守る会、母親大会などに参加
1960  35年  38才 安保闘争に参加、日米安保条約改訂
1962  37年  40才 板橋区立第10小学校学童保育所設立運動に関わる
1971  46年  49才 日中友好運動に参加
1972  47年  50才 沖縄返還、日中国交回復
1975  50年  53才 三鷹に転居、日中友好協会武三支部で活動、切り紙青洞会を結成、
                 ベトナム戦争終結
1976  51年  54才 第1回青洞会展開催
1977  52年  55才 「ギャラリーせいわ」で第2回青洞会展開催(以後、10回まで
          開催)
1978  53年  56才 中日美術展 最優秀賞(古木)受賞  
1979  54年  57才 第2回日本きりえ美術展(東京都美術館)に出品、以後連続20回
                 以上出品
1980  55年  58才 伊勢型紙彫型画展 三重県知事賞受賞(静)
1982  57年  60才 白内障を患う
1983  58年  61才 東京都勤労者美術展 会長賞受賞(雪しづり)
1987  62年  65才 東京都勤労者美術展 理事長賞受賞(秋興)
1990 平成2年   68才 白内障手術成功
1999  11年  77才 日本きりえ美術展連続20回出品で表彰
2000  12年  78才 青洞会講習会を終了
2005  17年  83才 11月18日死去、最後の作品は瑞輪寺(未完成)
2006  18年         10月27日〜31日遺作展開催(武蔵野芸能劇場)